生徒の「計算力」が泣き所になるという経験を一度もしない数学講師はいないのではないでしょうか。
というのも、いかなる数学の授業も「ある程度の計算力を生徒が持っていること」を前提に行わざるおえないからです。これは数学という学問の性質上、不可避なことのように感じます。
解答の方針を示すことは(ある程度のベテランであれば)簡単でも、その途中過程を押し進める計算に言及することは、至難の業です。というのも、どこの段階でつまずくか、小学生の計算か、中学生の計算か、高校生の計算か、それらはあまりに多種多様なので、指摘と適切な指導が困難を極めます。
最もよい方法は、自分で手を動かし、実際に計算を行い、トライ&エラーを通じて自己修正を加えてもらうことです。そして、自分の計算がなぜ間違えているのかを小学生でもわかる理屈で説明できるようになることです。
数学において、計算力とはどのような立ち位置を占めるのか、ということを時々考えます。
僕としての今のところの答えの1つとして、「計算力とは、数学的見晴らしのよさ」なのではないかと考えたりします。
計算力の高い人間は、より遠くを見晴らすことができます。解答の見通しが極めて立ちやすい状態です。意識的にせよ、無意識的にせよ、先を鋭く見通すことができる。
例えば、ある問題が与えられたとき、授業で講師は、まず近場の目的地を探します。目がよくても悪くてもそこにあることがみんな見えるような目的地です。そして、そこにたどり着いたあと、より遠くの目的地へとさらに案内します。
ところが、計算力のある生徒は最初からより遠くにある目的地が見えているため、手近な目的地を示す必要がありません。「もう、行く場所が見えてるのだから、そんなに迂回しなくてもいいじゃないか」と感じることさえあるでしょう。それを人は「数学的センス」と呼ぶのかもしれません。
反対に、「ど近眼」な人もいます。講師が手近の目的地を示しても、それすらぼんやりとしか見えていないという状況です。計算力がないというのはそういうことです。見えるべきはずのものが見えないのです。
ごく稀に、人間離れをした視力の持ち主がいます。まるで、双眼鏡を肩にぶらさげているような、極めつけは望遠鏡を保有しているような。
そういう人は、常人に見えないものが視えてしまうので、なぜそうなったのかということを聞かれると、「いや、視えたから」という意外に答える術がありません。
それはきっと数学で後世に名を残すようなタイプの人間なのでしょう。
話を戻すと、この生徒の「数学的視力」に頼って授業を進める他、講師に手はないように思えます。